東大院生の女子高生事件について言いたいこと



「東大院生、女子高生のあとをつけ抱きついたニュース」

 

こういうことをするから、研究者のイメージが悪くなるし、世の中の全ての研究者や院生に謝って欲しいとも思う。

研究と真逆のことをしたくなったって。果たして真逆なのか?笑

女子高生のストーカー問題について研究している人からしたら今回の件はまさに研究テーマど直球であり、真逆ではない。

研究の真逆=非合法なことをするという解釈なのか。

確かに研究では性欲は満たされない。己を「研究」という行為で研鑽し自分自身で承認欲求を満たすことと、「他人からの承認欲求」を得るために「女」に依存する、確かにそういう意味では相反する行為か。

恋愛とか女とかは簡単に承認欲求を得られる。自分を必要としてくれていると簡単に感じることができる。

 

だが、他人を必要としない、己自身で認めるという行為の一つに研究があるわけだが、今回のような一時的な衝動に駆られるような人は研究などしてはいけない。

自分で自分を律することができる人じゃないと無理だ。でなければこのいろんな情報が飛び交う時代、研究なんてとてもじゃないがやってられない。

 

この事件は「研究者のあるべき人間性」を考えさせられるなぁ。

 

 



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「嫌われる勇気」を読んで思ったこと



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前にアドラー心理学を書いている「嫌われる勇気」を読んだ。とあるフレーズが印象に残っているのでここに書きとめようと思う。

あんまり内容覚えてないけど

感想文というか個人的に印象に残っているフレーズについて僕の意見で深めていく感じです。

こんなフレーズがありました。

「向上心とは劣等感の裏返しの感情である」と。最初は???て思いましたけど、考えてみると確かにそうだなと。

例えば「向上心」には動機としては以下のようなものが挙げられますね。

  • 勉強をして成績(順位)をあげる
  • 毎日練習してサッカーのレギュラーを勝ち取る
  • ファッションの勉強をして、自分の見た目を少しでもよくする
  • 仕事に失敗してもどこがだめだったのかを冷静に分析し、次に活かす。
  • 知らない分野について知識を得るため読書を日常的にやる

とか、一般的に「努力」と言われるものは基本的には今の自分をもう一歩上に進ませる「向上心」からきているわけです。

そしてなぜこれらが、「劣等感」の裏返しなのか。

考えれば当たり前なのですが、誰だって何事において負けるのは嫌です。嫌ではなくても勝てるならそれに越したことはないわけです。

頭のよさ、成績、見た目、経済力、スポーツ、何にしろそうだと思います。

そしてもし負けると、嫌な気持ちになります。この嫌な気持ちの正体って一体何なのでしょうか?

多分これを追求することで、この「向上心は劣等感の裏返し」というフレーズを理解することができると思います。

負けた時の「嫌な気持ち」の正体

見た目で負ける(好きな人にふられる)、成績で負ける、部活の成績で負ける、会社の業績で負ける。

負けたことある人なら理解できると思いますけど、今の自分が嫌になりますよね?

自分は何でこんなブサ〇〇なんだとか、なんでこんな勉強できないんだとか、例え他で人に認められても負けた瞬間は他の自分の長所なんか忘れて、負けたポイント(欠点)に意識がいってしまいます。

ここで俺には別の長所があるからいいとか、楽観的な人はほっときます。そういう人は向上心がないので、劣等感を感じることもないです。

自分にとって都合の悪い現実には目を瞑るタイプです。

しかし世の中そういう人ばかりではなく、冷静に現状を受け入れ自分を今より高い次元へ進ませようとできる人もいます。「向上心」の強い人たちです。

話を元に戻すと、現状を受け入れる= 自分の欠点を認めるということです。ということは何かしらの向上心を持っている人は現状の自分を受け入れてはいるけど、そんな現状の自分に不満がある人ということになります。

この不満の正体こそが「負けている」劣等感です。

つまり、何かに向けて努力している人は他人と比較した時に劣等感を感じている人だということになります。

事実自分もそうです。自分より圧倒的に勉強できる人をみると自分もがんばならないとなとか、イケメンをみると自分ももう少しおしゃれしてみるか、とかそんな気分になります。

あなたの周りにも向上意欲が半端ない人たちはたくさんいるかもしれません。そういう人はおそらくといっていいほど、何かに負けたくないから頑張っていると思います。

とまぁ、「嫌われる勇気」の本質であるアドラー心理学については一切触れずにここまできましたが、内容も面白いです。

アドラー心理学的には

うつ病は結果論としてうつ病になるのではなく、何かの目的を達成するための手段として本人が「うつ病」という病気を利用している(患っている)という考え方です。現状を全て目的論として考えるらしいです。

誰が好き好んでうつ病になるかよって人は読んで見た方が早いかもしれません。納得するはずです。

他にも腰が抜けるようなフレーズがたくさん出てきます。普通の自己啓発本と違って物語(登場人物二人の議論)で構成されているので読みやすいですしね。

他にもこの本はディスカッションとかのお手本になるんじゃないかとか思いますけど。青年に対する先生の受け答えはさすがとしか言いようがありません。気になる人はぜひ読んで見てください。



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方法序説-デカルト-



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デカルトの方法序説第1部を読んだので、感想文を書こうと思います。

第1部はデカルトの学問の考察が書かれています。全部で第6部までありますが、正直、自分は第1部が一番惹かれたのでここを読みました。

一応二周さらっと読みましたが、やはり、哲学書だけあって、一行一行噛み砕いて読むべきでしょう笑。表面上しか理解できないです。

印象に残った点をあげると

  • デカルトは自然科学についても精通していた
  • 学問を追求することで己の精神を鍛えようとした
  • 哲学者が人間の中で一番優れた職業
  • デカルトは数学が好きであった
  • 文学による学問を放棄し、多くの経験をした学者

でしょうか。

 

デカルトが学問について、新しい哲学、根本原理を築きあけだのは、世界を旅し、書物以外からの学びも大事にしていたからだと思います。

 

卓上の空論ではない、すべての人間が、人生を通じて得られる学問のことでしょう。

 

おそらく私のような、一大学院生でも馴染みのある文章なのは、そういうことなのでしょう。

 

マルクスの資本主義とは段違いの読みやすさです。(とは言っても、さら読みでは理解できませんが笑)

 

自分は理系でなので、数学好きのデカルトは親近感が湧きます。昔の学者は現代ほど分野の壁がなく多才なイメージですが、方法序説が楽しく読めたのはデカルトが数学好きで自然科学に精通しているからこその視点で書かれているからこそ、楽しく読めました。

 

何故自分が方法序説を読もうと思ったのか学問を追求することって自己満だけなのか?

自己満だけだとして、それでいいのか?自己満以外にも追求意義があるなら、それは何か?

 

勉強すればするほど、世間と壁が生じるようで、学問追求に自信が持てなくなったからです。

 

本書を読めば、これの答えの一助となるものに出会えると思ったからです。

 

上記の答えにたどり着くには、自己満、自己満じゃないの前に、良識や理性の平等性について理解する必要があるのだと思います。

 

そもそも学問を追求すること自体が我々人間の存在意義と考えれば、デカルトの「哲学者は最高の職業」というのに一致する気がする。

 

ただそうすると、現在の学者像から判断すると色々な矛盾が生じます。

おそらく、このデカルトの考察をそのまま現代社会に適応させることはできないのでしょう。

 

自分の中で、デカルトの考察を広げ、自分の疑問の答えにたどり着きたいと感じる。

それがデカルトさんに対する、私ができる精一杯の恩返しでしょう。



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